歴史
坂本城は、元亀2年(1571)9月の比叡山焼討ち後、明智光秀が織田信長に命じられて比叡山麓の坂本に築いた城です。
当時の坂本は、比叡山延暦寺・日吉大社の門前町であり、また京への物資の入り口として栄えた港町でした。
足利義昭を擁する織田信長は、敵対する越前の朝倉氏・北近江の浅井氏と、この坂本を含む滋賀郡で戦闘を繰り広げます。いわゆる『元亀争乱』です。その中で延暦寺は、朝倉氏・浅井氏側に加担し、山上に兵を入れました。信長はこれを怒り、延暦寺に中立を求めますが、拒絶されたため、焼き討ちに及びました。
この焼き討ち後、信長はここに光秀を入れ、京の入り口を守り、比叡山の監視を行わせたのでした。
翌元亀3年(1572)12月22日、京の神官吉田兼見が坂本城を訪れ、「城中天主作事」を見物して驚きの声をあげています。天守は安土城(天正4年(1576)着工)に先んじて築かれたことになります。
光秀は、この坂本城を拠点として、近江・丹波平定等、各地で活躍しました。
その後、天正8年(1580)に再普請が行われており、天正10年(1582)正月20日には、光秀の茶会が「小天主」で催されています。
天正10年(1582)6月2日、光秀は本能寺で主君信長を討ちますが、13日の山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れ、敗走中に醍醐近くの小栗栖で落ち武者狩りに殺されました。
坂本城には光秀の家族がおり、明智秀満がそこに合流しましたが、秀吉勢に攻められ、城に火をかけて自害して果てました。
焼失した坂本城でしたが、信長亡き後を織田家中の重臣たちが協議した清須会議の結果、坂本は近江滋賀・高島郡を手に入れた丹羽長秀の所領となり、長秀のもとで坂本城は再建されました。
天正11年(1583)5月、秀吉は柴田勝家を滅ぼすと、丹羽長秀は若狭・越前に移し、坂本には家臣の杉原家次を入れました。
さらに同年12月には、城主は家次から浅野長政に変わりました。
そして天正14年(1586)、坂本城は解体され、大津城へ移されました。資材だけでなく、町ごと移されています。こうして坂本城の歴史は15年で閉じることになりました。
和暦 |
西暦 |
日付 |
できごと |
元亀2 |
1571 |
9月12日 |
織田信長、比叡山延暦寺を焼き討ちにする。日吉大社はじめ坂本一帯も焼かれる(比叡山焼討ち)。 |
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明智光秀、比叡山焼討ちの功により、近江滋賀郡を与えられる。 |
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12月 |
明智光秀、坂本城の築城を始める。 |
元亀3 |
1572 |
12月22日 |
吉田兼見(京 吉田社の神官)、坂本に明智光秀を訪問。坂本城天主の作事を見て驚愕する。 |
天正1 |
1573 |
2月29日 |
柴田勝家・明智光秀ら織田軍、足利義昭に与する今堅田の敵を攻略。これにより滋賀郡は平定される。 |
天正7 |
1579 |
3月 |
この頃、明智光秀、坂本城の再普請を行う。 |
天正10 |
1582 |
6月2日 |
明智光秀が織田信長を本能寺に襲撃し、殺害(本能寺の変)。 |
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6月13日 |
羽柴秀吉・織田信孝・丹羽長秀らと明智光秀が山崎で戦い、明智方が敗北(山崎の合戦)。光秀は敗走中に醍醐近く、小栗栖で一揆により討たれる。 |
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6月15日 |
秀吉勢、坂本城を攻撃。明智方は天主に放火し、坂本城は炎上。城方の主将は明智秀満とも高山次右衛門ともいう。 |
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6月27日 |
織田家の宿老、尾張清洲で会合(清須会議)。近江高島郡・滋賀郡は丹羽長秀に与えられ、坂本は丹羽の領地となる。 |
天正11 |
1583 |
4月20日 |
羽柴秀吉、近江賤ヶ岳にて柴田勝家を破る。(賤ヶ岳の合戦) |
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8月1日 |
杉原家次(羽柴秀吉の臣)、秀吉により丹羽長秀に代わり、坂本の支配を命じられる。 |
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この頃、羽柴秀吉、頻繁に坂本に滞在。 |
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12月 |
浅野長吉(長政、羽柴秀吉の臣)、杉原家次に代わり、坂本の支配を命じられる。 |
天正14 |
1586 |
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この頃、浅野長吉、坂本城を廃し、大津城に移す。 |
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